迷い人の間違った正義

敷地の外側を掃除中に、バイクで旅する人に声をかけられた。「アゲートブリッジはここから遠いのですか?」と彼は聞いた。アゲートブリッジとは、ベインブリッジ島とキットサップ半島をつなぐ北端の橋のことで、この場所は南に近いため「全く方向が違う」と答えたら「みんなが『こっちだ』というから来たのに」と、彼はため息を深くついた。


「みんなというのは、何人くらいに聞いたのですか?」と突っ込みそうになるのを抑えて正しい道を説明するだけに留めたが、「この島の人は不親切で、東西南北も分からない」と文句を言いながら、最後までその人は間違った道を教えたらしい『みんな』を責めていた。


島に住んでいる人に橋の場所を聞いて、「南に行け」と言われることは100%ないだろう。100歩ゆずって誰かが間違った道を教える可能性はあるかもしれないが、それでも複数の人が「橋は南」と言うはずはまずない。この旅人は恐らく自分が道を間違ったという事実を認めたくなくて、「被害者」でいることを選択したかったのだろう。「悪いのはみんな、島の人」。


自分が正しいと言い張りたいときに、事実を捻じ曲げてしまう人がたまにいる。自分の正義を守るために事実無根のありえないことを周囲に口外され、私自身、悪人のように祭り上げられたという経験もある。


「あなたが悪いと言われているよ」」そんな風に第三者が問い合わせしてきたことで、何故か身に覚えのないことで悪者になっている事実を知るに至ったのだが、そういう時には「毅然」としているのが一番だと思っている。悪意あるゴシップのような話が世間に出回って嬉しいとは当然思わないが、身に覚えがないものは「ある」とは言えないのだから、堂々としていればそれでいい。


「もしもそれが事実で私が悪いのであれば、私はそれを償うでしょう。もしも私の至らなさから、その人がウソをつかねばならない状態になったのだとしたら、私は自分の至らなさを甘んじて受けます。しかし一つだけ言えること、それは誰かがウソをつかねばならないほどに人を不当に追い込むようなことをしたこともないし、その噂は事実無根だということです」回答できることは、これしかない。


小さな幸せを大事にするということは、身勝手な小さな自分の正義を大事にするということではない。時には自分の間違いや愚かさへの猛省を、社会と自分のつながりの中で学んでいく姿勢は、どんな人の人生にも不可欠な要素だ。


生きていれば聞きたくないこと、見たくないこと、経験したくないことはたくさんある。しかし、その「したくないこと」を体験しながら、鍛錬してつくりあげるのが人生だと思うし、痛みや苦みこそが、人生を味わい深くする要素でもあるだろう。そしてそんな経験なしには、自分自身を俯瞰することはできないだろうし、そうした俯瞰力がなければ自分が本当は何を大切に生きたいのかも分からないだろう。


「自分はいつでも正しい、何か悪いことが起これば誰かのせいだ」という主張があることは賛同はできないものの存在することは理解できる。しかし、自分とつながる誰か、自分とつながる社会、環境……それらからすっかり分離してしまったら、その人が選択しているのは「孤独」だ。


バイクの旅人は北を目指して去っていった。

私はその孤独な背中を見送った。


Go Tiny!

大切なものが、すべて「半径5メートル以内」にあると気づくと、人生はもっと素敵になる

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